長野県神道青年会

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創立60周年記念事業 忠魂碑・慰霊碑調査

 

当会では、創立60周年の節目に主力事業である英霊慰霊顕彰事業として県内の忠魂碑、慰霊碑の調査を実施しています。

 

こで忠魂碑・慰霊碑等について簡単に説明します。

 

忠魂碑の前身は招魂碑といわれるもので大別すると2種類あります。

 

①招魂墓碑

遺体が埋葬されているもの。西南戦争以前に多い。

 

②招魂碑

参り墓(お参りする為の墓、埋葬墓は別にある)に似た機能をし、又表功碑として招魂墓碑や招魂社の由来を記し、死者への頒徳、弔慰の意を表す記念碑的なものがある。これが後に忠魂碑となっていく。

これら招魂碑の前では、その霊魂を弔慰する祭祀や何らかの慰霊行事が行われていたが明治時代になると、中でも国事殉難者はこれを招魂社として祀るようになりました。

やがて明治2年には東京招魂社(現在の靖國神社の前身)が勅令により創建され、明治7年には内務省達により全国各地の国事殉難者に関する招魂碑や招魂場、墳墓等は官費で維持管理される事となり、翌明治8年には官費維持の招魂碑や招魂場、墳墓等の御霊を東京招魂社に合祀、明治10年には内務省達により全国の招魂碑や招魂場、墳墓等は従前の通りこれを存置し、これらを招魂社とするよう示達しました。この年に東京招魂社は別格官幣大社靖國神社と改名し嘉永6年以来の国事殉難者も合祀されました。全国の招魂社は官祭、私祭に区別され各整備されて行き官祭招魂社が後に護國神社となります。

明治時代の日清、日露の戦争は近代国家として歩む我国の初期の対外戦争でした。多くの国民が出征し国事に殉じ、民間でもこれらの国事殉難者に対し慰霊顕彰の為に碑表を建設する動きが活発になります。これが招魂碑を前身とする忠魂碑のおこりです。日露戦争中後には全国各地で建碑が相次ぎ、これを懸念した政府は内務省通牒にて建碑を規制しました。(建碑は公主導ではなく民間よりの発意であった事を示している)。建碑に関してはその後、政府はこれを制限するようになります。一般的には忠魂碑などの建設は国民を戦争に動員する為の国策であったように云われていますが事実は反対です。

 

これら忠魂碑の建設には主に戦没者遺族や関係者が中心でしたが、明治43年帝国在郷軍人会が設立されると、同会の各市町村会が主体となって建設を行 い、忠魂碑の前では招魂祭など、神仏様々な方法で祭事が行われました。しかし、建設は私有地などに限定され官有地への建設は「参拝を目的として祭事を行う事は認めない」というものでした。これは、国が碑表を祭祀、宗教上の施設とは考えていないという事です。

次に第一次世界大戦、シベリヤ出兵、満州事変など海外出兵を伴う大規模戦役、昭和12年の支那事変が再び招魂社の創建や忠魂碑の建設を盛んにします。特に支那事変は戦争が継続中にもかかわらず国民からの碑表建設の要望が昂まります。しかし、これに対しての政府対応は、昭和14年には「支那事変二関スル碑表建設ノ件」なる通牒を出して無統制に忠魂碑等が建設されることを防ぐ為、「建設は一市町村を単位として一基に限定して認める」というものでした。

 

一方、忠魂碑の他にも「忠霊塔」と呼ばれるものがあります。明治、大正期に少数が建設され形状は塔であるが碑と同じく納骨を伴うものではありませんでした。これが日露戦争後に南満州の戦場跡には納骨を伴うものが建設されるようになり、主に外地に建設されていました。忠霊塔は外地という立地条件や戦没者に関係する事から、南満州納骨祠保存会、その後これを引継いだ(財)忠霊顕彰会が関東軍(満州防衛の日本軍)の全面支援により維持管理を行っていました。 これが内地にも陸軍を中心に建設が推進されるようになり、これを財界や(財)仏教連合会(全国56宗派各管長、宗務当局者唯一の中央機関)が賛同し積極的に支援協力しました。

これにより昭和14年、陸軍、海軍、内務、外務、厚生、拓務の六省が共同所管する(財)大日本忠霊顕彰会が「皇戦二殉ジタル忠死者ノ遺骨ヲ合祀シ其ノ忠霊ヲ顕彰スル」を目的として発足し忠霊塔建設の推進母体となります。全国の忠霊塔は一定規格に基づいた設計図、仕様書により建設されました。

 

これに対し、神社界では忠霊塔は靖國神社、護國神社と並列し競合する事により国民の英霊奉斎の観念を複雑にするとの危惧し建設推進を反対し、大日本忠霊顕彰会と協議の結果「公営墳墓の扱いとして参拝様式は一宗一派を超越したものとし市町村がこれに対し行う公の祭祀様式は今後研究する」とし、祭祀様式については神社、仏教界で論争になったが結着しませんでした。

 

昭和17年の記録では、完成忠霊塔124基、近々完成予定140基、建設希望1500基とあり忠魂碑も多く建設されましたが、この時期は全国的に忠霊塔が中心に建設されました。しかし、戦局が苛烈になって来ると「国家総力を挙げて戦力増強生産拡充に集結すべき時局下にありては墓碑建設に使用する資材労力は徹底的に節減する」などの方針により建設にブレーキがかけられました。

昭和20年戦争が休戦すると「神道指令」・「公葬等について」など進駐軍より次々に指令が出され国や公共団体の宗教儀式、行事の関わりが全面禁止され忠霊塔、忠魂碑等の戦没者の為の記念碑等の建設が一切禁止され撤去が命じられました。

 

これらは公共施設を対象にしていたにもかかわらず、民間での反応も過剰で対象外のものまでが拡大解釈され、公共地から私有地や社寺境内に移転されたものもあるが、私有地のものまで含めて全国の忠霊塔や忠魂碑は撤去、破壊されました。

 

昭和23年の政府調査では下記のような記録が残っています。

何らかの措置をされたもの・・・7,411基

内除去(破壊)・・・・・・・・・・・・・ 5,613基

移転されたもの・・・・・・・・・・・・・・・・ 90基

仕様替えしたもの・・・・・・・・・・・・・ 908基

占領中の進駐軍による戦没者への慰霊等に関する抑制は遺族、関係者からの不満が多く、これらの制限により戦没者を祀る神社に遺族等の関心か高まった事を進駐軍が重く受け止め、制限が少しずつ緩和されていきます。そして、昭和27年に対日講話が成立し戦争が終結すると進駐軍の指令は効力を失い、再び全国で戦友、遺族を中心に碑表の建設が盛んになり、破壊や撤去されたものが復元され新しい忠魂碑、慰霊碑が建設されます。この時期は民間による建設を地方自治体が側面より援助し国の内外を問わず各所に建設されました。この時期の復元、建設は約1万数千基といわれ、これ以降は民間を中心に現在でもまだ新たな建設が行われています。 (参考:國學院大學教授 大原康男先生「忠魂碑の研究」より)

 

以上が忠魂碑に関するものです。これを読んでいただければお解かりになったと思いますが、忠魂碑の建設は民間(遺族や戦友)が希望したもので、国はむしろ建設には否定的でこれを抑制していました。これが、一部の人達によれば国策で戦意高揚の為に国が建設を推進し、神道(国家神道)や軍国主義などとの象徴的な物とされ、多くの人たちにもそのように誤解されています。長々とその説明を記したのは、これが誤解である事を皆様に御理解いただきたいからです。

我国は近代に数々の戦争を経験しました。その戦争は外国を相手とする国家の命運を賭けたものであります。そして、多くの方々が国の為、家族の為、未来の我々の為に戦いその命を落とされました。

 

我が郷土の長野県では長野県護國神社に御英霊が祀られています。御英霊の命をかけた戦いにより現代の平和が築かれています。その行為たいしましては感謝の言葉がつきません。

 

長野県神道青年会では「私達の主張」にもあります通り、今まで様々な慰霊顕彰事業を実施してきました。その中で創立60周年事業として新たに県下の忠魂碑、慰霊碑等の調査を実施することになりました。県内各地の忠魂碑、慰霊碑は、長野県遺族会の皆様を中心としてさまざまな形式での慰霊祭等が行なわれております。

しかしながら、遺族の方々の高齢化などにより年々慰霊祭、その維持が難しい状況となっており、人々の関心も薄らいできています。このままでは先人達の慰霊顕彰はもとより、その足跡や過去と現在の結び付きもなくなり、誤った認識が跋扈したまま未来に引き継がれて行ってしまいます。

 

県内各所に散在する忠魂碑や慰霊碑は建立年代や建立者その趣旨等も様々であり、数も膨大といわれています。しかし、私達は僅かでも戦没者の慰霊顕彰になればと願い20歳代の会員を中心として長野県遺族会の皆様や関係者各所の御協力を得ながら現在調査活動を行っております。

 

現在までの調査状況は以下の通りです。

 

   北信地区・・・・・103ヶ所

  東信地区・・・・・・99ヶ所

  中信地区・・・・・・95ヶ所

  南信地区・・・・・239ヶ所

 

この事業は継続中であり、今後引き続き調査を続行して行きますので、皆様の御協力お願い致します。

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