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北マリアナ諸島戦没者慰霊祭

平成20年度 慰霊祭

平成20年度 北マリアナ諸島戦歿者慰霊顕彰事業   (平成21年2月22日~25日)

激戦の島・サイパン、テニアン、グアム島

この青い海を御覧下さい。かつてここが壮烈なる戦場であった事など微塵も感じさせません。

当会の主力事業の1つでもあります「大東亜戦跡北マリアナ諸島戦没者慰霊顕彰事業」として毎年実施していますテニアン島での慰霊祭も本年で8回目となりました。当日参加した会員の報告の前にここで改めてマリアナ諸島の歴史ついて記します。

戦前のパラオ、サイパンなどの島々は1919年(大正8年)第一次世界大戦の講話条約であるヴェルサイユ条約によりそれまでのドイツ領から日本の委任統治領となりました。これにより我国では自国領土としてパラオ諸島のコロール島に南洋庁を置きサイパン、ヤップ、パラオ、トラック、ポナペ、ヤルートに6つの支庁を置いて統治しました。この時多くの日本人がこれらの島々に移り住み、又国も積極的に開発を行った為大いに発展しました。サイパン島はおもに海軍が防衛を担当し、軍事的にサイパン島に敵の航空基地が出来ると本土が爆撃にさらされる危険性がある為大変重要な場所とされました。

両島が間近なことがよくわかります。テニアン島を防衛する将兵たちはここから、サイパン島の激戦を眺めていた事でしょう。

大東亜戦争が始まるとサイパン島の隣にあるグアム島(アメリカ領)も我国が占領し主に陸軍が防衛を担当していました。戦争が激化し、ガダルカナル島が失陥すると昭和18年に大本営は「絶対国防圏」(これ以上は絶対に米軍に進攻させない)を策定して千島、小笠原、マリアナ諸島、西部ニューギニア、スンダー、ビルマを結ぶ圏内を絶対確保の要域としました。先にも記した様にマリアナ諸島の多くは日本人が居住しており、更にはここが占領されると米国の戦略爆撃機B29の航続圏内になり本土空襲の脅威にさらされる事から特に重要地点として防衛体制が布かれ激戦が繰り広げられたのです。

 

このマリアナ諸島を防衛したのは陸軍の第31軍(軍司令官:小畑英良中将)でグアム島が第29師団(満州・遼陽)を基幹としたマリアナ地区集団(歩兵第38連隊:奈良、歩兵第18連隊:豊橋、独立混成第48旅団、独立混成第10連隊、他海軍部隊含めて約19,600名)がその任にあたり、テニアン島の防衛をした我が郷土部隊である陸軍歩兵第50連隊(松本)も主力部隊がこれに属していました。(50連隊の一部はロタ島を防衛)

 

又、サイパン島の防衛は陸軍第43師団(名古屋)を中心とした北部マリアナ地区集団(歩兵第135連隊:名古屋、歩兵第136連隊:岐阜、独立混成第47旅団、戦車第9連隊)と海軍中部太平洋方面艦隊(司令官:南雲忠一中将)麾下の海軍部隊の約43,000名がその任にあたり米軍の来襲を待ちうけました。

米軍は圧倒的な兵力と物量で来襲、事前に航空機による爆撃と艦砲射撃による猛烈な攻撃を行った後にサイパン島には昭和19年6月15日に70,000名が上陸を開始し、現在は歓楽街となっているガラパン(旧日本人街)が7月3日に制圧され7月9日には米軍が占領宣言を行いました。続く7月11日からはグアム島に攻撃が開始され即日54,000名が上陸、8月11日にほぼ占領状態となります。

 

一方、テニアン島は7月24日、約8,000名が守備するところに米軍25,000名が上陸し、7月31日に日本軍が最後の夜襲を敢行し玉砕。8月1日に占領宣言されました。圧倒的な物量で補給も確実な米軍に対し、補給も途絶え兵員の補充もない日本軍はそれでも将兵敢闘良く困難に耐え戦いましたが、やがて兵は傷つき、弾は尽き各島で壮烈なる玉砕戦となりました。多くの民間人もこれに巻き込まれ亡くなりました。中には米軍の捕虜になる事を恐れ幼子を抱いて海に飛び込んだ方もありました。

 

現在、これらの島々は南の島、リゾート地として年間に多くの日本人が訪れていますが、このような悲しい歴史があります。この事実をどれだけの日本人が知っているでしょうか?

【慰霊顕彰事業報告】

本年度の北マリアナ諸島戦歿者慰霊顕彰事業は、昨年から続いた原油高の影響や厳しい世情も相俟って、少数精鋭の13名の参加となりましたが、更埴支部竹内支部長夫妻を始め東海地区協議会の大須賀会長、当会顧問の皆様のお力添えを頂き無事その務めを果たしてくる事が出来ました。

初日はサイパン島に到着後僅かに仮眠をし早朝よりセスナ機でテニアン島へ飛んでテニアン神社での戦歿者慰霊顕彰奉告祭に備えて準備をしました。亜熱帯の森に囲まれたテニアン神社はとても静かで、厳粛で少し重苦しいような空気の中奉告祭は斎行されました。

 

その後、同じテニアン島のスーサイドクリフにある慰霊施設へ移動し、岸壁より吹き上げる強風と突然のスコールにも関わらず皆で祭典の準備をしましたが、晴天と台風が一緒になったような妙な感覚でした。

 

戦歿者慰霊祭の最中は突風に耐えながら、かつて日本の兵隊達はこんなとてつもないところで最後を遂げたのかと感慨がこみ上げつつも、国歌を斉唱している時は英霊が応えてくれているようでとても晴れやかな気持ちでした。

祭典終了後は、次にやってくるスコールに追われるように大急ぎで撤収をして、スーサイドクリフを後にしました。

 

3日目には、昨年度からの願いであったサイパン島内の慰霊施設を巡るジャングルツアーを敢行しました。かつて多くの日本人が追い詰められて命を落とした場所という極楽谷・地獄谷では、地獄谷こそ近くまでは行けませんでしたが、それぞれお供えをしてお参りをさせて頂きました。また、現場にはまだ新しいお供え物が残されており、現地ガイドの話によると慰霊施設を周るツアーを希望する人は意外といるとのことでした。しかし、野戦病院跡地はまさにジャングルというか藪を進んでいった先の洞窟の様なところで、もう少し病院らしい建物などがあると思っていただけに想像を絶しました。昔造られたと思われる簡単な祭壇はありましたが、ここにはまだ浮ばれない御霊が沢山いるような気がしてなりませんでした。

この他、サイパン島のスーサイドクリフやバンザイクリフに行きましたが、特にバンザイクリフには沢山の慰霊碑や慰霊施設があり、ラストコマンド近くには日本政府の慰霊施設がきれいに管理されていて、65年経った今も本土からの想いがこには集まっているんだと思いました。

また、弾薬庫や刑務所、海軍司令部跡などの当時日本が建造したものは、今は廃墟となっているけれどもとても頑丈に出来ていて美しく、先人の心意気を伝えるものばかりでした。

 

かつてサイパンの街が南洋の東京と呼ばれたように、この島には玉砕という悲しい歴史だけでなく、確かに日本がこの島で繁栄を築いた証が残っているんだと強く感じました。

 

そしてこの旅で日本人としての誇りを持てたことがすごく嬉しかったです。

 

来年は、まだ行ったことのない会員の皆さんにも是非経験をして頂きたいし、又この事業を続けていかなければいけないと思いました。

 

                 (慰霊顕彰委員:光特派員)

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